なぜ「雨に降られた」は良くて「財布に落ちられた」は不自然なのか?  〜読後「言語学の教室」〜|日本語3.0

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なぜ「雨に降られた」は良くて「財布に落ちられた」は不自然なのか?  〜読後「言語学の教室」〜

<認知言語学とは何か?>

「昨日、財布に落ちられました」
「昨日、雨に降られました」

能動文はそれぞれ「昨日、財布が落ちました」「昨日、雨が降りました」で、これらの文は間接受け身(別名「迷惑の受け身」)と言われるものです。

文法的には間違っていませんが、前者の「昨日、財布に落ちられました」は不自然に思えます。

どちらも無生物の主語であり、自分が迷惑を被った際には間接受身にできるはずですが、なぜなのでしょうか。


実は間接受身にするためには「受苦、諦念、他者性」の3つの条件がそろわなければならないのです。

「昨日、雨に降られました」は3つの条件が揃っていますが、「昨日、財布に落ちられました」は他者性がありません。

自分で管理できており、自分に過失があるため間接受け身を使えないのです。

言語を習得するためには語彙と文法の知識が必要なのですが、そのような言語知識の理解を深めたとしても日本語には文法的には間違っていないものの不自然に思える文が多くあります。


文法や言語知識だけでなく心理、認知的な観点から捉えようという考え方をするのが認知言語学の分野です。

今回は「言語学の教室」を参考文献に挙げながら認知言語学がどういったものなのかについて説明を試みます。

西村義樹「言語学の教室」



<認知言語学とは?>

認知言語学はもともと生成文法のアンチテーゼのような形で生まれてきました。

生成文法とはチョムスキーが20代の頃に発見した概念で簡単にいうとなぜ人間は少ないインプットから言語を習得できるのかと言う問題提起から創設された理論です。


認知言語学も生成文法も言語習得を可能にする知識を解明するという点で共通しており、さらにその知識は心の仕組みの一環であると見なす点でも共通しています。

しかし、生成文法では細かく知覚とか記憶などを考慮して言語知識を説明する必要などないという立場です。

言語を話す上で確かに心は影響するが、あくまで言語知識や文法とは独立したものであり、心的機関というものが別個存在するというのがチョムスキーの主張です。

意味や認知などは時代によって変わるためできるだけ排除し、客観的に文法や語彙を研究しようというのがチョムスキーの考えだったようです。


対して認知言語学では言語知識や文法は不可分なものだという立場を取ります。


例えば「AさんはBさんを殴った」も「BさんはAさんに殴られた」と聞いてあなたは同じ意味だと思うでしょうか。

表現している事象が同じなので同じ意味だと捉えるのが生成文法の立場で、違う意味だと捉えるのが認知言語学です。


つまり、生成文法では受け身形という文型(というより文法全体)に意味や知覚が含まれず、客観的なものだと考え、対して認知言語学では文法や語彙にも主観的な知覚や意味が含まれていると考えます。


<メトニミーについて>

「村上春樹を読んでいます」
「自転車をこぐ」
「鍋が煮える」
「パイプが詰まる」

我々が何気なく使っているこのような言葉は全てメトニミー、つまり比喩と呼ばれるものです。

上のメトニミーは具体的には以下の事実を言い表します。

「村上春樹の作品を読んでいます」
「自転車のペダルを漕ぐ」
「鍋の中の具材が煮える」
「パイプの中にゴミが詰まる」

しかし、こう言い換えるまでもなく日本人であれば同じ情景を思い浮かべることができるでしょう。

我々はなぜメトニミーを使うのでしょうか。

認知言語学ではこのメトニミーにこそ言語では言い表せない人間の認知能力や意識が表されていると考えるのです。

例えば「鍋が煮える」を例に取るとあなたはどんな光景を思い浮かべるでしょうか。

おそらく鍋のふたがグツグツ音を立てて沸騰し、お湯が吹きこぼれている様子を思い浮かべるのではないでしょうか。

しかし、「鍋の中の具材が煮える」と聞くと肉や野菜が鍋の中でひしめき合ってグツグツ音を立てている様子を思い浮かべるのではないでしょうか。

つまり前者は鍋全体に、後者は鍋の中の具材に焦点が当たっているのです。

「パイプが詰まる」と「パイプの中にゴミが詰まる」も同様です。

「パイプが詰まる」と聞くと水が流れなくなってしまってパイプが機能しなくなっている様子を思い浮かべます。

つまり詰まっているのがゴミかどうかわからずパイプ全体に焦点が当たっている状態です。

一方「パイプの中にゴミが詰まる」は空洞の中に髪の毛や残飯が詰まっている様子、つまりゴミに焦点が当たっています。

そしてその焦点を「は(主題)」の前に持ってきて発話します。

先ほどあげた「雨に降られました」も同様で、能動文では「雨が降りました」ですが「困った」という気持ちに焦点を当てれば「雨に降られました」と言うわけです。


このように我々は何を目にするか、何に注目するかで微妙に表現を変えているのです。

メトニミーはそんな人間の無意識を表しているのです。

皆さんも普段使っているメトニミーに意識を払って少し考えを巡らせてみてください。

2021.01.15 | コメント(0)
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