読後 『 楽毅 』 宮城谷昌光 〜キングダムでおなじみ諸葛亮が憧れた男の名言集 (上)〜
http://hayato55.com/article/188017533.html
「楽毅」
今回はその続きです。
「公子、勇気を持たれることです。勇気とは、人より半歩すすみでることです。人生でも戦場でも、その差が大きいのです」p161
中山国の太子の子供(公子)に楽毅がかけた言葉です。
宿敵、趙に攻め込まれ領土の大半を失った中山国でしたがそんな状態になりながらも王は有効な手立てを講じず、逆に公子と楽毅に昔陽という城の攻略を命じます。
昔陽という城は山間にある城で攻略はほぼ困難でまさに自殺行為なのですが、怯える公子にかけた言葉がこの言葉でした。
結果、不可能と言われた昔陽攻略に成功します。
楽毅の軍略の才が光ったことも勝因でしたが、中山国の実力者司馬きが前もって
「中山が攻めてきたタイミングで反乱を起こせば祖国に返してやる」
昔陽の捕虜に反乱を起こさせるように工作していたのです。
司馬きは前から楽毅の人柄と才能を買っており、中山国を救うには楽毅の力が必要だと分かっていたため、戦死させないための工作活動だったのです。
実は昔陽攻め自体も王都が攻め込まれることを見越して楽毅と公子を昔陽に逃がすという司馬きの深謀遠慮であり、司馬きが王に提案したものでした。
楽毅と公子を殺したがっている王なら昔陽攻めを快諾するだろうという司馬きの読みは当たり、のちに王都が趙軍に包囲された頃に昔陽にいた楽毅の命は助かります。
司馬きはその時王を殺し、自死を選びます。
他の人がやりそうもない困難に勇気を持って取り組んだ結果楽毅と王子は助かることになったのです。
「人知れず耐えるのは辛い。が、耐えるということは、もとより人に見せびらかすものではなく、孤立無援のかたちにほかならない。〜中略〜 一つわかることは、こころざしが高い者は、それだけ困難が多く、苦悩が深いということだ。人が戦うということは己と戦うということであり、勝つということは己に剋つということにほかならない。」p224
昔陽に立てこもり生活をしている時希望がない中、楽毅は砦の修繕や練兵、夜は読書に勤しんでいました。
一方中山の王都は趙の大軍に包囲され陥落寸前で、いつこちらに攻めてくるかわからない状態でした。
部下たちは希望が見出せず不安と恐怖に押しつぶされそうな中、楽毅は冒頭の言葉で部下を鼓舞しました。
楽毅ほどの名将でなくても何か新しいことに挑戦している人は絶えず孤独感や虚無感に苛まれ、時に理不尽な目に遭うこともあるでしょう。
特にこの時期いつ会社が倒産し、職を失うかわからない状態の中経営者は戦国時代の武将と同じような不安や課題を抱えていることでしょう。
しかし、良心にしたがった行動をして腐らず昨日の自分に打ち勝ち、毎日少しずつでも前進するすることでピンチの時に思わぬ天佑に恵まれるのです。
「趙の武霊王は、外交の機微というものが分かっており、他国の窮状に凶邪の手を差し向けず、援助の手で小利をあたえる。無論その小利とは隠された大利につながるものである。」p270
ついに楽毅の祖国である中山が趙に滅ぼされてしまいました。
楽毅が守っている昔陽は健在であるものの趙に攻められるのも時間の問題になってきました。
中山が滅び、趙が勝った理由について検証しましょう。
直接的にはもちろん兵力差なのですが、なぜ兵力差がついたのかと言えばもちろんそれまでの行動こそが勝負の分かれ目となったのです。
そのためそれまでの準備というのがものすごく大事なのです。
これまで徳を積み天に愛される者が勝者になるという話をしてきましたが、趙の武霊王は野心が高く徳を積んでいるとは言い難い存在です。
それなのになぜ成功したかと言えば諸国が危ない目に合っている時必ず助けて恩を売っていたのです。
具体的には北方の燕という国が東の大国斉に攻め込まれ内戦状態になった時亡命していた太子を擁立して内戦を納めました。
その太子はその時の現国王だったため中山が燕に救援の依頼をしても公に軍を出したり救援物資を届けることはできませんでした。
武霊王はこうやって中山国以外の諸国に日頃から恩を打っていき中山を孤立させた状態で攻め込んだのです。
ギブした者が勝者になるという話はビジネスの世界でもそうですが、死ぬか生きるかの戦国時代からそうだったということです。
またギブするときはこの時の趙のように登り調子の時の方が有効です。
うまく行っている時の方がより多くのものを多くの人に与えられているからで、相手にとって旨味もあるからです。
反対に中山のような小国でさらに滅亡寸前に追い詰められたときに慌てて諸国に助けてもらおうとしても与えられるものや条件が少ないため、相手としては旨味がないのです。
また趙の武霊王は良くも悪くも国の方向性を示し、胡服の導入など軍政改革を行いました。
一方、中山は外交面では諸国に横柄な態度を取り続け関係樹立の努力もせず、内政面では才能あるものを遠ざけ、私腹を肥やす臣にあふれていました。
将、リーダーたる者は進む方向性をきちんと示し、従業員もみんなが努力が報われる方向へ頑張らせることが大切で結果組織も人も守られることになります。
もし、あなたが何をやっているのかわからないという会社に勤めているなら即刻やめたほうがいいでしょう。
中山の民のように無駄な努力をさせられれば自分の人生も破滅に向かってしまうかもしれません。
*この話は「楽毅2」から抜粋したものです。
「楽毅2」
「こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる」
楽毅は自分の行動や指示の目的を部下に知らせませんでした。
戦国の世において将というものはいつ死ぬかわからない身分であるため、そうなった時軍が壊滅しないためすぐに自分にとって代わる部下を育てておかなければなりません。
そのために自ら思考し、行動できる人材に育て上げる必要があるのです。
そのために自分が指示を出すときはあえて何も言わなかったり少しぼかした言い方をしたりして部下に考えさせるようにします。
そうして行けばリーダーの資質のある人ならどんどん育っていくし、何も考えられない部下であればその人は延々部下止まりの人材なのでリーダーに育てるのはやめた方がいいでしょう。
「いわば人の大小、賢愚、吉凶は、平穏な日々、不遇の時のすごしかたによってさだまるといっても過言ではない」p103
中山は王都が陥落して王は死亡、残るは楽毅が守る昔陽ともう一つの城だけとなり、実質滅亡状態になりました。
いつ趙の軍勢が昔陽に攻めてくるのか時間の問題で住民も部下も不安と恐怖に押しつぶされそうな毎日を送ります。
そんな中将である楽毅は兵法書を読み、思いついたアイデアを元に取手を作り直す、練兵する、燕に救援の以来のために奔走する、など最善を尽くそうとします。
将来のことを不安に思うのは人の性ですが、将来どうなるかわからないのも事実で、それならば状況を1ミリでもよくするために日々を過ごす方が賢明です。
調子がいい時に奢らないということは意外に誰にでもできることですが、負けた時不遇な時にひたむきに最善を尽くす努力を続けられる人は滅多にいません。
その滅多にできないことができる人こそ他より抜きん出ることができるのであり、現にこの頃には楽毅は敵の諸国からも名将として知られる存在になっていました。
結局多勢に無勢で楽毅が守る昔陽も陥落してしまうのですが、楽毅の事前作が十分に奏功し、二人の将軍を討ち取るという大金星を挙げて撤退しました。
無職となってしまった楽毅ですが、諸外国の名君や賢臣たちは才能もさることながら滅亡寸前の国を助けようと尽力した楽毅という人物に興味を持つようになり、次の道が開けるようになります。
不遇な時に全力を尽くしたおかげで次への大きな飛躍につながったのです。
あなたが今不遇でも雄飛の前の雌伏の時だととらえ前進する努力を続けましょう。
必ず飛躍するタイミングが来るはずです。
*この話は「楽毅3」から抜粋したものです。
「楽毅3」