「日本人と日本語の歴史 A 〜日本人はどこからきたのか?〜|日本語3.0

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「日本人と日本語の歴史 A 〜日本人はどこからきたのか?〜


ダイヤモンド博士の著書によると最初に農耕が始まったのは
中国、メソポタミア、アメリカ中央部から東部、アマゾン川流域の4箇所であり、
それ以外の地域はそれらのいずれかの土地から伝播したものである。

『銃・病原菌・鉄』 ジャレド・ダイヤモンド


日本もそんな国の1つであり朝鮮半島から渡来人によって稲作が伝えられた。

にも関わらず列島のほとんどが稲作を導入するまでに比較的長い期間を要している。
これは日本は海産物や農産物に恵まれていたため稲作を導入する必要が
なかったからだと博士は指摘している。


以前、こちらの記事では縄文時代と弥生時代、古墳時代のそれぞれの時代の
断絶について論じた。

「日本人と日本語の歴史 @ 〜縄文人は日本人ではない?〜」
http://hayato55.com/article/182901227.html

断絶した原因は日本も地球上の多くの狩猟民族同様、
渡来人に取って代わられたという説を紹介したが、
今回は縄文人と弥生人はある程度棲み分けていたという説を紹介し、
検証を試みる。


<人類の歴史から>

そもそも人類の歴史は20万年前のアフリカのホモ・サピエンスの
誕生から始まる。

今から6万年前、理由は定かではないが一部の人類がアフリカを脱出し、
ヒマラヤ山脈のあたりで南北二手に分かれた。

北周りの人類が3〜4万年前にシベリアにたどり着き、
バイカル湖周辺にしばらく定住していたことがわかっている。

最近、バイカル湖周辺で出土した人骨のタンパク質が縄文人の
それと酷似していることが判明し、バイカル湖の周辺に住んでいた人々が
日本人の祖先ではないかとにわかに注目を浴びている。


そして日本列島に人が住み始めたのが今から2〜3万年前、
バイカル湖から何回にもわたって移住してきたのだとされる。


今から1万8千年前まで氷河期で大陸と地続きであったため、
容易に移り住むことができたと推察され、
この頃から日本列島で遺跡が多く発見されているのである。


近年、指紋、血液型、B型肝炎ウィルスなどのDNA研究を駆使した
日本人のルーツ探しが盛んだが、西日本が渡来人的(弥生人)な体質
であるのに対し東日本は縄文人的な体質を持っていたのだと思われる。


前述の通り当時地続きであったためシベリアから北周りで流入してきた
人類がの多くが東北に移り住んだためであろう。


一方で南回りに移動してきた人類も長い年月をかけて東南アジアに
たどり着き、やはり約1万8000年前その一部が北上し日本に移り住み
縄文人となったと考えられている。


縄文人の頭骨や歯の形状は南方系のそれとほぼ同型であり、
南方からの移住者も多く含まれていたことは間違いない。


簡単にまとめると日本人の祖先は北方からの移住者が多くを占めていたが、
南方からの移住者も少なからずいたということである。


この事実は言語的な観点からも伺える。


日本語はアルタイ語族に分類され、トルコ語、朝鮮語など
アルタイ山脈一帯に見られる言語形式(文法構造での高い類似性、
音韻面での部分的類似性)を日本語も引き継いでいる。


このことは日本人の祖先はアルタイ山脈あたりから移住してきた、
つまり北方から移住してきたと言えそうである。


加えて次のような指摘もある。

すでに5000年前、縄文時代中期、南方系のオーストロネシア語と
北方系のツングース語が重なって1つの言語が成立していた。
(崎山理『日本人のルーツがわかる本』)


まとめると、言語的にもDNA的にも縄文人には北方からの影響が
色濃く残っているが、同時に南方からの影響も少々あった。

つまり、
日本人の祖先である縄文人は北方と南方双方からの移住者から形成された。


そしてこの一万年以上続いた縄文文化こそが日本人の原型を形作ったのである。


<縄文人は弥生人によって滅ぼされたのか?>


そこで最初の問題、縄文人は弥生人(その後の渡来人)に
滅ぼされたのか、それとも共存していたのかという質問に戻る。


おそらく渡来人が二千数百年前に最初に日本に来た時、
日本は縄文時代後期にさしかかっていた。

そしてこの時期縄文人はほとんど壊滅的ともいうべき人口減少に晒されている。


結果この時期の縄文人と渡来人(弥生人)の人口比率は1:3くらいで
あることがわかっており、圧倒的に渡来人の方が多かったことが
わかっている(関裕二 2005)

この時期に最初に稲作が始まっていたことが近年わかってきている。

弥生時代は現在の時代区分より数百年早かったと言われるのはこのためである。


では縄文人は渡来人に滅ぼされ、
それにより稲作が広がったのかというとそうではない。


縄文人の人口減少は渡来人の侵略によるものではなく
ウイルスによるものだったことがわかっている。
(渡来人とウイルスの関係性は明らかになっていない)


また、渡来人は同時期に大挙して押し寄せて来たのではなく
縄文時代末期から1000年に渡って移り住んで来た。


計画的な侵略によって稲作を広げたのであれば数千年もかからなかったと
考えられるし、弥生時代には農耕用の石斧やミノ、装飾用武器はあったものの
職業軍人用の武器や防具は見つかっておらず
職業軍人や大規模な戦争があったような痕跡は残っていない。

また、住居跡からも防護壁らしきものは見つかっておらず
侵略に必要な馬を常備していた形跡はなく、そもそも馬自体も少なかった。


このように渡来人には職業軍人的な要素はなく、軍隊を形成して他の地域を
侵略することはおろか、海に守られた日本列島を侵略するために半島から
水軍を組んで侵略してくる技術は到底なかっただろう。


そもそも侵略されて縄文人が死に絶えたのであれば先ほどの崎山氏の言説
「縄文時代に南方系のオーストロネシア語と北方系のツングース語が
重なって1つの言語が成立し、現在まで残った」という説と矛盾する。


また、冒頭のジャレドダイヤモンド博士の説の通り、
日本は資源に恵まれていたため食料をめぐって争いあう必要もなく
急速に稲作を取り入れる必要性もなく段階的に導入していったのだろう。


それどころか北部九州では縄文人と渡来人は互いに交流したような形跡も
残っている。


東日本から出土している弥生時代中期以降の特徴である埋葬文化や
大型甕棺や青銅器がそれらが最初に伝わったはずである北部九州の一部では
採用されておらず、ずっと古式の用具を使用していた形跡がある。


要するに縄文人は交流によって文化を取捨選択していた可能性があるのだ。


他にも弥生時代を代表する銅鐸の文様には縄文時代特有の文様が残っており、
弥生土器にしても縄文土器に似た形状のものが多く作られている。

これまでの流れをまとめると以下のようになる。

・縄文時代に形成された言語が今の日本語の源流である。

・縄文時代末期から1000年にかけて大量の渡来人が移住し、
 それ以来比較的急速に稲作が日本列島に広がった。

・比較的急速だったものの侵略によるものほどの速度ではなく
 大規模な戦闘や職業軍人の痕跡も見つかっていない。

・同時期に縄文人が急激に減少しているもののウイルスの影響である。

・弥生時代以降の文化には縄文時代の文化が色濃く反映されている。

したがって、結論としては

・日本人のルーツは縄文人であり彼らは減少しつつも渡来人と交流を続け
 稲作をはじめとした渡来人の文化を段階的に吸収していった。

・渡来人は計画的な侵略をせず、またその能力もなかったため縄文人との交流によって
 言語を覚えて交流し、それが現在まで残った。

ということが言えるのではないだろうか。


以前こちらの記事で江藤氏の「縄文と弥生の文化の断絶」についての説を紹介した。

「日本人と日本語の歴史 @ 〜縄文人は日本人ではない?〜」
http://hayato55.com/article/182901227.html

江藤は2つの点で渡来人が縄文人を滅ぼしたという説を展開している。

「一つは水稲農業は高度な技術を要するため通常
ヒエ、粟、麦栽培などの農業文化を経て水稲が定着するのが
自然であるが日本にはこれらの段階が見当たらない(芋の栽培は存在した)。
したがって、急激に水稲文化が九州と西日本一帯に広がった
という点が不自然であるという」

もう一つは西日本一帯から出土した農耕に使う石斧やノミが
南朝鮮で出土したものに非常によく似ている点である。



これら2つの言説に対する反論は
「縄文人と渡来人が交流によって住み分け、互いの文化を取捨選択していった」
という説によって成立しそうである。


いわば弥生時代は縄文人と渡来人が交流によって形成した文化の結晶だったのである。


『古代日本列島の謎』

2018.10.12 | コメント(0)
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